ヴァイオリニスト 久保陽子物語 #5

音楽教室の試験と母の機転

小学校4年の頃、村山先生の勧めで、斉藤先生の主催されている子供のための音楽教室を受験することになった久保さん。
「誰でも受かりますよ」という村山先生の言葉をそのまま受けとめ、引っ越しと重なった本試験を受験しませんでした。

軽く考えていたので、追試に行った時、受験する子供が50人もいるのにまず驚いてしまいました!
さらに試験を受けに来ていた子供たちが皆、ピアノの重音(和音)の聞き分けにたやすく答えていたのに、お母様はびっくり!
奄美にいた頃、小学校に一台だけしかなかったピアノ。太平洋戦争当時、激しい空襲のため、島でたった一台焼け残ったそのピアノは、ピアノの形こそとどめていましたが、ほとんどの鍵盤がはずれ、弦は錆びたり切れてしまっていて...という代物でしたから、久保さんはピアノの音を聞いたことがなかったのです。
お母様が見かねて「この子はピアノの音を聞いたことがありません」とおっしゃると、先生方はあぜん...。
実はこの教室、超一流の子供たちが集まる、音楽の「英才教育」をする学校だったのです。当時、音楽を勉強していた子のほとんどは上流階級で育ったお金持ちの家の子供たちでした。

久保さん:「先生方、皆さんポカーンとしちゃってね、この子...ここに何をしに来てるんだろう?って顔してたの。それでも当時東京でいろいろと優遇されているような方々も、戦争直後の時代だったから理解してくれてたんだと思うわ」

ここでお母様が機転を利かせ、「この子、バイオリンは子供の頃からたくさん弾いているので、単音ならわかります!」と言ってなんとか試験を続けていただくことができました。そこは小さい時分から机をたたいた「音」でも訓練してきた久保さん、単音当てはスラスラ出来ます。

久保さん「それで、耳は悪くないんだと思ってくれたみたい。あと、ソルフェージュはドレミが読めたからできたし」

親子で状況が全く分かってない中での試験。それでも50人中合格者は久保さんだけでした。

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